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「心得た」っ言葉

皆さん おはよう御座います 高島 まこと です

暑いですね~って言っても治まりませんが・・・

さて

僕の尊敬する小名木さん読んで下さい

戦後GHQによる武士道の禁止にあった事を踏まえ日本人の素晴らしさを再認識して下さい・

最近では契約社会と称して、いちいち細かな取り決めを行い、それを証紙にするだけでなく、「もし契約違反があったときは」などと違約条項などを契約書面に入れるのが普通のことになっています。

ところが昔の武士達は、契約もしなければ約束もしませんでした。

武士は、口に出したらそれが「約束」でした。

「はい、これ約束ね」なんていう確認さえありません。

ただ「心得た」だけです。

そういう生き様を貫いたのが日本の武士でした。

関ヶ原の合戦のときのことです。

伊勢・伊賀32万石の大名であった藤堂高虎の家臣に、藤堂仁右衛門(とうどうにえもん)という人がいました。

藤堂仁右衛門は、激しい戦いの中、水を飲もうと谷川に降りたところ、そこで敵の大将、大谷吉継の重臣である湯浅五助(ゆあさごすけ)に出会いました。

さても勇名で鳴らした湯浅五助です。

「いざや、尋常に勝負!」と藤堂仁右衛門は、手にした槍を持ちかえました。

すると湯浅五助は、「いや、待たれよ」という。

「実はいま、主(あるじ)の大谷吉継の首を埋めているところでござる。勝負はするが、貴殿を見込んでお願いがござる。主人の容貌は、腐りの病で見るに耐えぬほどになっている。首を晒されたなら天下に醜貌(しゅうぼう)を晒すことになろう。ついては首を埋めたこの場所を、どうか他言しないでもらいたい。我が願いを聞き届けとあらば、よろこんで槍を合わせよう。」というのです。

主君を思うその気持ちに打たれた藤堂仁右衛門は、「委細承知」と答え、五助が首を埋め終わるのを待ちました。そして尋常に勝負し、見事、五助の首をあげました。

関ヶ原の戦が終わり、大谷吉継の首探しが始まりました。

ところが、どこをどう探しても、首が見つかりません。

そこで家康は五助を討った藤堂仁右衛門を呼び出しました。

「何か手がかりを知っているのではないか。」

問われた藤堂仁右衛門は、家康に向かって言いました。

「吉継殿の首の在処は存じております」

「ではすぐにこれへ持ってまいれ」

ところが藤堂仁右衛門は、首を横に振りました。

「それはできかねます。湯浅五助殿に頼まれたのでござる。それゆえ、たとえご上意であっても、その場所をお答えすることはできませぬ」

家康の近習たちは、色をなして怒りました。

「殿の御前であるぞ。どうしても教えられぬと申すか」

「たとえご成敗されても、申し上げられませぬ」

「ならば成敗するぞ」

「ご随意に」と、藤堂仁右衛門は、首を前に伸ばしました。

その様子を黙ってじっと見ていた家康は近習に、「そこにある槍を持て」と命じました。
一同に緊張が走りました。

家康は、槍を手にすると言いました。
「仁右衛門、その心がけ、いつまでも忘れるなよ」
そう言って、その槍を藤堂仁右衛門に与えました。

大谷吉継は、敵の大将です。
その首を差し出せば、藤堂仁右衛門は大きな恩賞に預かれたことでしょう。
勇猛で知られた湯浅五助の首さえもあげているのです。
経済的な損得でいえば、藤堂仁右衛門は死んだ五助に自分が言った言葉を守るよりも、家康に首を差し出した方がはるかに「得」です。

けれど、損得ではない、それよりももっと大切なもののために命を賭けた、それが武士でした。
そしてそうした心得は、藤堂仁右衛門のような大名に限らず、下級武士たちにとっても、あたりまえに具わっていた観念でした。

なぜ日本の武士に、このような高度な感覚が備わったのでしょうか。
世界の兵士達、ChinaやKoreaにせよ、西欧にせよ中世、あるいは近代においてさえも、武器を持った兵たちというのは、軍もヤクザも暴徒も、まったくおなじものです。
ChinaやKoreaは現代でもそうですし、西洋では、以前三十年戦争の記事でこれをご紹介しています。

そういうことを考えると、藤堂仁右衛門のような武士の姿が「あたりまえであった」ということ時代が、人類社会のまさに奇跡のようなできごとに感じます。
どうして日本ではそのようなことになったのでしょうか。
理由を、三つあげたいと思います。

ひとつは、日本ではすべての民衆が天子様(天皇)の「おおみたから」とされてきた、ということです。
これが社会の常識であれば、当然に武人は、その「おおみたから」を、世の非道や不条理から守る立場となるし、それ以外にはありえないからです。

ふたつ目は、「魂」です。
日本では太古の昔から、肉体に宿る命には、その命と糸で結ばれた魂が宿ると考えられてきました。
これは仏教伝来以前からある、日本の古くからの考え方です。

肉体が滅びれば、命はなくなります。
けれどそのとき、魂は肉体を離れて神々のおいでになる天上界に行くか、あるいは死者の国に行くか、あるいはまた、別な人間となって転生します。
その糸が「絆」であり、糸と糸を結ぶことが「結い」です。
ですから絆や結は、肉体と肉体の結びつきではなくて、魂の結びつきです。

お天道さまが見ていないところで悪さをすれば、その魂が穢れます。
穢れれば、せっかく良いことをしてきても、来世で悲惨な人生を歩まねばなりません。
人は神になるために生まれてきたのであり、その神になりそこねたのみか、来世でいまよりもっと悲惨な人生が待っているのです。
だから「乞食したって、この魂だけは穢さない。」
それが日本人の生き方であり、生き様でした。

みっつ目は、「教養」です。
「おおみたから」「穢れ」などの日本人としての常識や思想を、たとえ農家の貧しい家の出であったとしても、そういうことを幼い頃からしっかりと教えこまれたのです。
西洋人の友人は、「日本人は日曜学校に行かないのに、どうして常識が備わっているのか不思議」に思うといいます。
大人になって毎週日曜学校に通わなくて良いように、子供の頃からしっかりと常識をわきまえさせる、教えこむ。
それが日本の常識でした。

三日後に、クーデンホーフ光子のことをご紹介した記事を書きますが、明治時代に西洋に移り住んだ日本人女性の青山ミツは、子供達にたいへん厳格な躾(しつけ)を施したそうです。
友人たちの家ではもっと自由なのに、どうして自分の家ではこんなにまで躾が厳格なのか。
子供達はたいへん不思議に思ったそうです。

躾(しつけ)というのは、単に礼儀作法のカタチだけのことを言うのではありません。
生き方や、生きる上での心構え、生きるための基本となる心の姿勢を教えこむのが躾です。
そしてその躾の中に、常識としての教養があります。
学問としての教養と、躾のための教養は、全然別なものです。
百人一首も、この教養のうちです。

現代日本の教育は、学問としての教育に偏り、肝心の躾のための教育がなされていない。
なされなければ、日本人の民度が下がり、日本人が朝鮮人化する。
そのようなことを、いったい誰が歓迎しているのでしょうか。

では行ってきます

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