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世界最長484日の漂流で起きたこととは

皆さん お早う御座います 高島 まこと です

少し暖かい朝をむかえましたね~よかったです

日本人とはこうゆう民族です。ぜんこうさんが書いてくれたのを借りてきました。

是非読んで下さい。

人は魂の乗り物です。
ですから人の道を外れた行動を取れば、それは魂の傷となり、来世にまで祟ることになります。小栗重吉が苦しい漂流生活において、人であることを保ち続けることができた背景には、こうした日本的死生観があります。
いまも重大犯罪を犯す馬鹿者がいますが、本当は日本は、教育においてこうした魂とか御霊といった概念を、幼いうちにしっかりと教え込む必要があるのかもしれません。

上にある絵は、メデューズ号の筏(いかだ)といういう絵です。
フランスロマン主義派の画家テオドール・ジェリコーの油絵で、パリのルーブル美術館に所蔵されています。
写真をご覧になられた方も多いのではないかと思います。

メデューズ号というのは、フランス海軍の小型戦艦です。
40門の大砲を装備し、ナポレオン戦争でも活躍しました。
この船が、文化13(1816)年、フランスから西アフリカのセネガルに向かう途中、操船を誤ってアルガン岩礁に乗り上げて座礁しました。
このときメデューズ号には397人の乗員が乗っていたけれど、手持ちの救命ボートは6隻しかない。
収容能力は250人です。

そこで救命ボートに乗れない残り147人(男性146人、女性1人)について、船内の木材を使って筏(いかだ)を作り、これを救命ボートで曳航することにしました。
海岸までは50キロです。

ところが折からの強風のため、曳航用のロープが切れ、筏(いかだ)が漂流してしまう。
そもそも曳航用に急造した筏(いかだ)です。
筏(いかだ)には食料も水も、救援物資はほとんど積まれず、操舵や航海のための手段もありません。

漂流を始めた筏(いかだ)では、まず士官と乗客、水兵と陸兵の間で争いが起こりました。
そして漂流が始まった最初の夜の内に、20人が殺されてしまいます

さらに何十人もが、比較的安全度の高い筏(いかだ)の中央部の席を争って死に、3日目には筏(いかだ)上の生存者は、わずか67人に減ってしまいました。
食料がないことから人肉食を行う者が出始め、肉を食べて力をつけた者が、弱ったり傷ついた者を海中に投じたため、漂流8日目までに52名が死亡してしまう。

漂流9日目に偶然遭遇したアルギュスに救出されたのは、わずか15人だけでした・・・というのがメデューズ号遭難事件のあらましです。
洋上での漂流というのは、かくも厳しいものなのです。

さて、そうした漂流事件で、過去最長の漂流日数を記録しているのは、どこの国でしょうか。
実は、それが日本です。

事件はメデューサ号遭難事件の3年前、文化10(1813)年に起こりました。
尾張藩の小嶋屋庄右衛門所有の船「督乗丸(とくじょうまる)」(約120トン)が乗組員14人を乗せて江戸からの帰還途中、遠州灘で暴風雨に巻き込まれて遭難してしまったのです。

舵を破損した督乗丸は、海流に乗って太平洋を漂流し、文化12(1815)年に、米国カリフォルニア州のサンタバーバラ付近の洋上で英国船に救助されるまで、なんと484日間にわたって漂流しました。
生存者は、船頭の小栗重吉以下、音吉、半兵衛の3名だけでした。

3名は、ベーリング海峡を経て択捉島(えとろふ)島に護送されました。
途中、文化13年6月に半兵衛が病死し、最後に残った小栗重吉と音吉の2名が、同年9月に松前に到着。
江戸での取り調べのあと、文化14(1817)年4月に身柄を尾張藩に移され、5月にようやく故郷の土を踏みました。

文政5(1822)年、生き延びた船頭の小栗重吉から、国学者の池田寛親が漂流のいきさつと経緯を詳しく聞きとり、これを『船長日記(ふなおさにっき)』という本にまとめて出版しました。
おかげで漂流の詳細な情況が、いまに残されたのです。

そこで漂流の模様を元本田技研工業の仲村孝さんの講演録から、以下にご紹介します。

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記録によると督乗丸は、海難にあった時点で米を6俵と、大量の大豆を積んでいた。
当初、乗員14人でしたが、遭難時に1人が転落事故で死亡。
漂流したのは13人です。
漂流が始まって13日目には、船長の重吉は長期の漂流を覚悟したそうです。
その理由は、「もう八丈島が見えない」だそうで、以後彼は大変なリーダーシップを発揮し、食糧の食べ方など諸々の指示を仲間に与えます。

重吉は万年暦というものを持っていて、その暦に基づいて日々の出来事を書き付けていたようです。
86日目に米が尽きる。
魚を釣る話も出てきますがなかなか釣れなかったようです。
150日目には起き上がれない人が相当出てきた。懐血病のようで寝たきりになり起き上がれない。

212日目に初の死者が出ます。
ここから350日までの間に10人が立て続けに死亡。
残ったのは3人でした。

350日目、この時に3人のうち2人が死体遺棄の提案をします。
要は10人の死体をこのまま置いておくのは如何なものか、
船を守っている神様が悪臭を放つ死体を嫌っているのではないか、
しかるが故に陸に辿り着けないのではないか、
船霊の怒りを鎮めるために死体は捨てるべきだ、と主張したのです。

当時「船霊」といって、右舷に3種の船霊が収められていたそうです。
1つは女性の髪の毛です。
この時は船主の奥さんの髪の毛。
それから双六(すごろく)のサイコロが2つ。
そして1対の紙で作ったお雛様(ひなさま)。
この3つが船霊だそうです。

これに対し船長の重吉は逆に竜宮の神の怒りを心配します。
つまり「死体を海に捨てるのは簡単だ。ただ捨てることで海底の海神様が怒るのではないか、それで海が荒れたら船は沈んでしまう」ということです。

悩んだ船長はおみくじに頼りました。
丁か半かということで、おみくじを引くと「捨てろ」とでる。

こうして3人は10人の死体を海に捨てたそうです。
その時の描写にはこう書いてあります。
「死体を触るとぼろぼろと崩れ落ちる。
 土を運ぶがごとく手にすくって、
 その死体を海に入れた」
「ぼろぼろと」とか「土を運ぶがごとく」という表現が印象的です。

話が前後しますが重吉は、
「おみくじで棄てろというなら仕方あるまい。
 ただ1ヶ月待ってくれ。
 その間、自分の夢枕に
 この死んだ者が《捨てないでくれ》と
 語りかけてきたら中止しよう」
と言ったそうです。
それで1ヶ月延期したのですが、誰も夢枕には出てこなかったということで捨てたそうです。

それ以降2ケ月強、天候が悪化、サメが出たり、今まで釣れていた魚が釣れなくなったとか、3人のうち船長を除く2人が体調不良となり、元気なのは重吉だけとなったそうです。
それから3か月あまり更に漂流が続き、重吉までもが身体が弱り、万事に悲観的になり落胆してしまう。

もうおみくじを引く意欲も無くなるのですが、440日目に意を決して、もう1回引きます。
その時の状況は、簡単に言えばカードを3枚用意し1と3を引いたら自殺する、2を選んだらまた生きようと考えたそうです。
そしで選んだのが2番だった。
そこで、「しからばいつ頃陸地に巡りあえるのだ」と更におみくじを引く。
回答は「今から1~2ヶ月後」。それで元気回復、頑張るわけです。

さきに概要で述べたようにその一カ月半後の484日目、サンタバーバラの沖合まで漂流した督乗丸は英船に救助され3人は露船に移乗、2人が約3年半ぶりで日本に帰った訳です。

重吉の統率力、グループの意欲を高める力は大変なものがありました。
例えば、皆に念仏を唱えさせたという話があります。
念仏を唱えない奴には食料を与えないと宣言までしています。

面白いのは船内で「好きなだけバクチをやれ」と、なかば強制的にバクチをやらせていることです。
重吉はその時30歳を少し越したくらいの年齢でした。
自分より若い仲間が死んでいく中、自分だけは生きて帰るという思いが特別強かったようです。

それも自分の個人的な為でなく、
「なんといっても供養塔を建てる、
 建てるまで俺は死ねない」
という堅い信念のもとで彼は生活したようです。
そうした信念あればこそ生き延びられたのだと思います。

彼は実際に日本に戻って供養塔を建てます。
それは現在、名古屋市熱田区のお寺に残っています。
ただ建設資金には苦労したようで、資金集めに熱田神宮などで参詣人相手に見料を徴収しています。

484日の漂流、プラス英・露の船での航海という世にも珍しい体験を語り、米露で集めた39品目を展示、さらには約340語の和露単語集も販売したそうです。
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メデュース号遭難事件にあるように、海難事故による遭難というものは、その日のうちには殺し合いが始まり、わずか3日目には食人が、そしてわずか9日間の漂流ですら400人中385人が死亡するという一種の極限状態です。
その極限状態にあって、人としての気概を失わず、人類史上最長の漂流生活を耐え抜いたのは、他でもない日本人です。

船頭の重吉も立派なら、音吉を含め、お亡くなりになったひとりひとりの船員たちも、皆、立派でした。
そしてこんなところにも、共に生きようとする日本人の共生の文化がにじみます。

さらに重吉は、亡くなった仲間に対し
「なんといっても供養塔を建てる、
 建てるまで俺は死ねない」
と固く心に誓い、神仏の加護を信じて疑いませんでした。

これが日本人です。
そしてその日本人としての血を、我々こんにちを生きる多くの日本人は、ちゃんと受け継いでいます。

ちなみに共産主義思想は、その神仏を先ず否定します。
神仏とか宗教とかいうものはいかがわしいものであり、ダーウインの進化論にあるように人類は常に進化するものであり、その進化の果てにあるのが理想的共産主義社会であるユートピアであると説くからです。
しかし、そのユートピアなる社会が、どのような社会システムを持ち、どのように犯罪に対処し、どのように行政が行われ、どのように災害対策がなされるのか等といった具体的な姿は一切描かれません。
それはそれぞれの人の思いでしかないわけです。
しかも、過去は常に遅れた存在であると主張する共産主義者が、「いまどきの若い者は」などと言い出す始末ですから、お笑いです。

かようにいい加減なものを、主義と称すること自体、馬鹿げているのですが、人は馬鹿げているものに夢中になるという特性があります。
馬鹿げているから、最後は有無を言わさぬ感情で解決するしかなく、だから共産主義は虐殺主義に至ります。

一方、西洋において、宗教がありながら漂流が常に悲惨を伴ったことにも理由があります。
肉体を持っていて神との契約がある者のみが人だからです。
そして人の肉体は復活の日に備えます。
つまり肉体の保持が大事になります。
死んで海の藻屑となり、埋葬されないのならば、その日に復活できないのです。
だから何が何でも、自分だけは生き残ろうとします。

東洋社会においては、チャイナの場合、人は食べ物であり、生きている間だけが人ですから、生き残るためには人を食べます。

これに対し日本では、人は魂の乗り物です。
ですから人の道を外れた行動を取れば、それは魂の傷となり、来世にまで祟ることになります。
小栗重吉が苦しい漂流生活において、人であることを保ち続けることができた背景には、こうした日本的死生観があります。
いまも重大犯罪を犯す馬鹿者がいますが、本当は日本は、教育においてこうした魂とか御霊といった概念を、幼いうちにしっかりと教え込む必要があるのかもしれません。

ここまでです。

では行ってきます

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