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- 真岡郵便電信局事件これが真実です
皆さん おはよう御座います 高島 まことです
なんだかハッキリしない天気が続きますが如何お過ごしでしょうか~
さて 尊敬する小名木さんのブログをご紹介します
何を思うのか・何をするべきか考えると思いますが御一読下さいませ
事件が起きた真岡町は、かつて樺太にあった町です。
樺太は魚のようなカタチをしていますが、その南半分は日本の領土です。
「いまなお日本の領土」であって、「ロシアの不法占領」が続いているところです。
北方領土を、国境の外側にある「外国」と思っていると、歴史を読み間違えます。
そこはいまも昔も日本だからです。
真岡町は、樺太の南側、つまり魚の尾ヒレのようになっているところの、付け根のあたりにあります。
8月9日、いまはもう無くなった国であるソ連は、いきなり日ソ中立条約を破って満州、樺太、千島列島に攻め込みました。
ソ連が動員した兵力は、戦車5千輌、兵力157万人という、気の遠くなるような戦力です。
ちなみに日本は、真珠湾攻撃が対米宣戦布告の30分前に行われたことで「だまし討ちだ」米国に言われ、そのことを多くの日本人はいまだに申し訳なく思っているようです。
しかし戦争は、宣戦布告などまったくなしに、突然開始されるものの方が、はるかに多いのです。
アメリカにしても、建国以来200回にのぼる戦争を行っていますが、そのなかできちんと宣戦布告をして開戦したのは、たったの4回しかありません。
むしろ世界では、宣戦布告がある方が、異例です。
毎回キチンと宣戦布告をしながら戦いを行ってきたのは、近現代史の中では日本くらいなものです。
ですからソ連が攻めてきたとき、はじめのうちは日本側は、攻めてきた相手が、どこの国かさえわかりませんでした。
このため避難勧告も遅れ、樺太に「緊急疎開」の指示が出されたのは、ソ連侵攻から4日目、8月13日になってからです。
そして二日後の8月15日の正午には玉音放送が流れています。
日本は世界に向けて戦闘行動の終了を宣言しました。
ところがソ連は、おかまいなしに侵攻してきました。
真岡郵便局の乙女たち
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています)
とにもかくにも樺太に残留する邦人、特に女子供を優先して本土に疎開させなければならない。
そこで輸送船を出したのですが、そんな疎開のための輸送船を狙って、ソ連の潜水艦は攻撃をしかけてきました。
輸送船は沈められ1700名の日本人が海に消えました。
これが8月22日の出来事です。
輸送船を撃沈するというのは、明白な戦時国際法違反です。
しかしそれでも我が国の輸送船団は、わずか10日で合計8万7千人を北海道へ輸送し、疎開させています。
この輸送を成功に導くために、絶対に欠かすことができないのが、本土との「通信連絡の確保」です。
いまのようなスマホの時代ではないし、電話番号を押せばコンピューターが相手の電話機に繋いでくれる時代でもありません。
この時代は電話をつなぐのは、すべて電話交換員の手作業です。
アニメ映画の『となりのトトロ』で、さつきちゃんがおばあちゃんの家の電話を借りて受話器を外し、くるくると横の取っ手を回して「七国山病院をお願いします!」と言うシーンがあります。
この時代の電話機には、まだ番号を押すところがありません。
電話の受話器(耳あて)を取り、電話機の横についている取っ手をクルクル回すと、電話交換所の交換員につながります。
そして電話を架けた人が、「どこそこをお願いします!」と言うと、電話交換手が、相手先の電話回線に、手作業で通話のコードを差し込んで電話を繋ぐのです。
その電話回路の接続業務(電話交換業務)をしていたのが、郵便局の乙女たちでした。
さて、時計の針を少し戻します。
8月16日の朝、真岡郵便局で朝礼が行われました。
その朝礼で、交換手の主事補だった鈴木かずえさんが、部下の女性交換手たち次のように話しました。
「政府から特に
女性たちを優先して
緊急疎開させるようにと、
疎開命令が出ています。
でもその疎開を
効果的に実現するためには、
電話交換業務を
継続しなければなりません。
そこで残って交換業務を
続けてくれる人を求めます。
ただし、すぐに返事は聞きません。
全員一度家族と相談したうえで、
返事を聞かせてください。」
その場にいた女性交換手全員が手を挙げて、
「私は残ります」
「私も残ります」
「私も残らせて下さい」と答えました。
みんな、17歳から24歳の、若い女性たちです。
みんなの気持ちは、とても嬉しいものです。
けれど残れば、ソ連兵に蹂躙され、殺されます。
つまり「残る」ということは、「死ぬ」ということです。
だから鈴木かずえさんは、
「自分ひとりで決めちゃいけない。
あくまで家に帰って、
親と相談してから、
あらためて
名乗り出てください」
と述べたのです。
斉藤春子さんと、妹の美枝子さんの姉妹は、二人とも残留を志願しました。
家にいた母には、娘たちの気持ちや行動がわかりました。
母は真岡郵便局長に電話をかけました。
「娘二人とも
預けたままでは
引き揚げられません。
どうしても
ひとりだけでも
連れて帰らせてください。」
8月18日、上田局長は斉藤姉妹を呼び出しました。
そしてお母さんからの電話のことを二人に伝えて言いました。
「美枝子さんと
二人で相談して
どちらか一人
引揚げるように
してください」
姉妹は互いに、自分が残ると押し問答を繰り返しました。
そして言い合いの後、姉が母と帰ることになりました。
そんな姉妹の言い争いを黙って見ていた上田局長は、残留の決まった妹の美枝子さんも、母と姉の乗る復員船の出航に間に合うように帰しています。
こうして最終的に真岡郵便電信局には、17歳から24歳までの20名の乙女たちが残りました。
8月19日朝、人数の少なくなった真岡郵便局は、電話交換手を平常の三交代制から、非常勤務体制である二交代制に体制を組み替えました。
電話交換手の女性たちは、上野班と高石班の二つに分けられました。
午後7時、最初の夜勤当直班として高石班11名が勤務に付きました。
この時点で、真岡郵便局にいたのは、
平井茂蔵電信主事他男性職員6名、
女性職員14名
です。
そして高石班11名は、電話交換業務を行う”奥の建物”にいました。
8月20日午前7時33分、ソ連の軍艦が真岡付近にやってきました。
港に近づいたソ連軍艦は、なんの予告もなく、いきなり猛烈な艦砲射撃を始めました。
続いてソ連軍の上陸用艇が真岡町に上陸を開始しました。
南京のことがよく取り沙汰されますが、南京城攻略の際、総大将の松井石根大将は、南京城を包囲したあと、なんと1週間もの間、城内に向かって降伏と軍人以外の一般市民の退去を呼び掛けを行い、その間、一切の攻撃をせず、一般人の避難のための時間を相手に与えています。
戦いに際し、一般人への被害を極力少なくしようとしたからです。
便衣兵などと呼ばれ、女子供まで一般服に身を包みながら、日本軍が近づくといきなり発砲して日本兵に損傷を負わせる。
そんな卑怯なルールを無視したChina兵に対してでさえ、日本は出来うる限りの温情で、一般人の被害が出ないよう最大限の配慮をしました。
これが日本の姿勢です。
ところが真岡にやってきたソ連軍艦は、近づくや否や、いきなり艦砲射撃を一般人に向けて行ないました。
多くの日本人はこのために防空壕に入る間もなく命を失っています。
早朝のことです。
郵便局には、まだ誰も出勤していません。
徹夜組の高石班長は、上田郵便局長他、局幹部に電話で緊急連絡を行って、職員全員に非常招集をかけました。
本土への応援(救援)の依頼等に際して、電話交換業務が混みあうことが予期されたからです。
地震や台風などのあと、電話回線がパンクするのを想像したら、事情はおわかりいただけようかと思います。
局員たちは、大急ぎで郵便局に向かいました。
ところがその頃には、すでにソ連兵が上陸していました。
ソ連兵は、動くものを見れば、片端から銃撃してきます。
日本人の民間人は、武器を持っていません。
けれど、武器がなければ、反撃される危険がなければ、情け容赦なく銃撃を浴びせ、見つけ次第殺すのが大陸の流儀です。
戦時国際法では、戦闘は
「軍服を着用して
軍帽または鉄兜等を被り、
武器を携帯している者
以外は攻撃してはならない」
ことになっています。
民間人を攻撃して良いのは、明らかに便衣兵が混じり、自軍に損害の恐れがあるときに限られます。
この場合は、民間人であっても、全員殺して構わないことになっています。
なぜならそうしなければ、自軍に損害が出るからです。
ところがソ連兵は、日本人には便衣兵などいないのに、公然と攻撃をしかけてきたわけです。
このように、
「相手が武器を持たずに抵抗できない」
ときにこそ居丈高になって徹底攻撃をするのが大陸の流儀です。
このことは特筆事項として、私達は決して忘れてはいけないことです。
またソ連兵は、屋内に侵入して強姦や略奪を行いました。
この略奪というのは我々の想像以上に徹底していて、そこにあるものは全部持っていかれ、略奪後の家屋は、まるで廃墟同然となります。
これもまた大陸の流儀であり、戦時国際法違反の行為です。
混乱の中で、郵便局に出勤途上の上野班の電信受付係の折笠雅子さんも、ソ連兵によって射殺されました。
艦砲射撃やソ連兵の銃撃を避けて、途中の防空壕に避難した職員たちも、壕の中に手榴弾を投げ込まれて次々爆死しました。
そのときの様子を、混乱の中でからくも助かった上野班の藤本照子さんが次のように証言しています。
「決死隊の一員として、
空襲の時は
すぐ郵便局へ行くことに
なっていたのですが、
ソ連兵が
どんどん上陸し始め、
実弾が飛びかい、
とても無理でした。」
上田郵便局長も郵便局へ向かいました。
けれど手当たりしだい一般市民を虐殺するソ連兵の前に、とりあえず付近の建物に避難しました。
するとその建物には局長の他5~6名が先に避難していました。
建物内に郵便局長の姿を見つけた真岡署の木村巡査部長は、局長らを救出しなければならないと、上田郵便局長が隠れている建物に向かって走りました。
ところがあと一歩で、建物にたどり着くというときに、ソ連兵の銃弾によって、後ろから撃たれてしまう。
自分たちを助けようとしにきた木村巡査部長が目の前で倒れたのを見た上田局長は、なんとか彼を建物の陰に引き込もうと路上に飛び出しました。
すぐあとを同僚の局員が続きました。
その二人をみつけたソ連兵がまた発砲しました。
上田局長は、左手に貫通銃創を負い、もうひとりは右足に盲管銃創を負って倒れました。
血だらけになった局長の姿を見て、一緒にいた若い男が棒の先に白布を縛り付け、ソ連兵に降伏の意思表示をしました。
その場の全員がただちにソ連兵によって拉致されました。
真岡郵便局には平屋建ての本館と奥の2階建ての別館がありました。
本館は爆破されて中にいた全員が死亡しました。
真岡郵便局は指揮系統を失いました。
こうして電話交換手の女子11名だけが、奥の別館に取り残されたのです。
彼女たちはソ連の攻撃が始まってからも、各方面からの電話交換業務を1時間以上も継続しました。
しかしはじめのうち遠くにあったソ連兵の銃撃の音がどんどん間近に迫ってきました。
さらに表側の郵便局本館も吹き飛ばされました。
この時点でもはやこれまでと悟った彼女たちは、本土に向けて最後のメッセージを送りました。
それが、
「皆さんこれが最後です。
さよなら、さよなら」
というものです。
11名の女子は、この電文のあと、全員足を縛り、手にした薬包紙に包まれた青酸カリを口にしました。
ソ連兵が電話交換室に乱入してきたとき、そこに裾が乱れないように足を縛り、きれいに並んで死んでいる11名の乙女たちの姿がありました。
その凄惨さに、さしものソ連兵にも人の心が息を吹き返しました。
ひとりひとりの状態を丹念に調べ、まだ息のあった女性二人を救出しました。
けれど残りの9名は還らぬ人となりました。
このことから戦後にアホな学者などが、
「真岡郵便局の女性たちは、
何も死を選ぶ必要がなかった。
なぜなら2名の女性は、
ソ連兵によって救助され、
命をながらえている。
彼らは悪魔ではない。」
などときいたふうなことを述べています。
そういう連中は「人でなし」だと私は思います。
ソ連兵に限らず大陸の兵にとって、強姦と略奪は給料のようなものです。
青酸カリを飲んで、仮死状態になっている女性では、ソ連兵にとっては戦利品となりえなかったというだけの話です。残酷だけれど、それが事実です。
ちなみに、大正9年5月に、いまではロシアのニコライエフスクと名前を変えた尼港で起こった尼港事件では、露・支・韓人の混合パルチザンが、日本人の民間人121名を殺害しています。
ここでは、日本人は生きたまま両目を抉り取られ、5本の指をバラバラに切り落とされ、死ぬまで何度も刺されて殺されています。
そして金歯があるものは、生きたまま顎(あご)から顔面を裂かれて、金歯を抜き取られ、女は裸にされ死ぬまで強姦された上で、生きたまま股を切り裂かれ、乳房や陰部を抉り取られて殺されています。
このとき、酸鼻をきわめた現場の壁には、血痕や毛のついた皮膚などがこびりついています。
≪参考:尼港事件≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2650.html</u>“>http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2650.html
このような危険が間近に迫ったとき、真岡郵便局の乙女たちが、おのれの人間としての尊厳を守るために、他にどういう選択肢があったのでしょうか。
彼女たちの冥福のため、昭和天皇と香淳皇后が、御製と御歌を残されています。
【昭和天皇 御製】
樺太に 命を捨てし たおやめの
心思えば 胸せまりくる
【香淳皇后陛下 御歌】
樺太に つゆと消えたる おとめらの
みたまやすかれと ただいのりぬる
この事件は、後に「氷雪の門」というタイトルで映画化されました。
その冒頭のナレーションです。
「樺太(からふと)・・・
いまはソ連の支配下にあり
「サハリン」と呼ばれているこの島は、
ともすればもう、
人々の記憶から遠ざかろうとしている。
だが、今日もこの海の向こうに見えるあの樺太は、
多くの人々にとっては、
いつまでも懐かしく
心を去らない故郷(ふるさと)である。
また、ある人々にとっては、
父や母や子供を失った悲しみの土地でもある。
その思いをとどめようとするために、
ここ北海道稚内市稚内公園に、
ひとつの門が建っている。
この白御影石を使用した
十メートルあまりの二本の塔。
その下に、厳しい樺太の風土に耐えて
生き抜いた人々をあらわす女人像。
これは「氷雪の門」と呼ばれている。
この碑文には、次の言葉が刻まれている。
『人々はこの地から樺太に渡り、
樺太からここへ帰った。
戦後はその門も固く閉ざされた。
望郷の念止みがたく、
樺太で亡くなった多くの同胞の霊を慰めるべく、
肉眼で樺太の見えるゆかりの地の丘に、
この塔を建つ』
またその近くに、
一叢(いっそう)の屏風のように
形作られた九人の乙女の碑。
『皆さんこれが最後です。さようなら』
この言葉の意味を知らない人は多い。
また、初めてこの碑の存在に気付く人も。
そして傍(かたわ)らの碑文を読む人は、
これが樺太西海岸真岡町、
真岡郵便局電話交換手九人の、
最後の言葉であることを知るだろう。」
この映画は、昭和48(1973)年に撮影され、翌昭和49(1974)年に上映開始予定となりました。
ところが、同年3月7日、モスクワで、モスフィルムという会社の所長がたったひとこと、
「ソビエトにとって非常に面白くない映画が
日本で公開されようとしているのは
理解に苦しむ」
と、たったひとこと発言したことで、予定されていた全国での映画配給が、いきなり中止になりました。
上映されたのは、北海道と九州の一部の映画館が、わずか2週間ほど公開しただけです。
映画はお蔵入りになりました。
真岡の郵便局で、尊い命を捧げた9人の乙女たちの命より、人類の理想国家ソ連への礼賛のほうが大事だったのでしょうか。
私には、そのような人たちは人非人にしか見えません。
いまでは、彼らが礼賛したソ連がどういう国だったのか、世界中の誰もが知っています。
しかし「氷雪の門」が、その後テレビで放映されたという話も聞きません。
真岡郵便局でお亡くなりになった9名の乙女たちです。
高石ミキ 24歳
可香谷シゲ 23歳
伊藤千枝 22歳
志賀晴代 22歳
吉田八重子 21歳
高城淑子 19歳
沢田きみ 18歳
渡辺 照 17歳
松崎みどり 17歳
【碑文】
8月20日、
ソ連軍が真岡上陸を開始しようとした。
その時突如、日本軍との戦いが始まった。
戦火と化した真岡の町、
その中で交換台に向かった9人の乙女らは、
死をもって己の職場を守った。
窓越しに見る砲弾の炸裂、
刻々迫る身の危険。
今はこれまでと死の交換台に向かい
「皆さんこれが最後です。
さようなら、さようなら」
の言葉を残して、
静かに青酸カリを飲み、
夢多き若き花の命を絶ち、職に殉じた。
ひとつ、大切なことを加えておきます。
南樺太は、日本領であり、戦前まで日本人が入殖していました。
もともと、樺太は北海道より北側の、緑も何もない荒涼とした赤土の大地でした。
みなさま、機会がございましたら、是非、google MAPの航空写真で、その樺太を見てください。
日本領だった南半分だけが、いまでも緑の大地となっています。
日本人が、冷たい寒帯の島で、土を耕し、たくさんの木を植えたからです。
その緑が、いま、少しずつ、北半分にも広がりつつあります。
真岡郵便局の乙女たち、そして我が国北方領土でお亡くなりになった皆様のご冥福を捧げ、このお話を皆様にお送りします。
※ 真岡郵便電信局事件は、つらく悲しい事件です。
せめて、彼女たちが生まれ変わるときは、
寒いサハリンの地ではなく、
南の島の明るい太陽のもとでのんびりとしていただきたいな。
そんなことを思って、
冒頭に南の島の写真を貼らせていただきました。
ちなみに三年前はタヒチ、一昨年はモルディブ、昨年と今年はセイシェルです。
すこしでも暖かな景色を、亡くなった彼女たちに捧げたいと、南の島の写真にしています。
毎年この時期には、本当なら真岡郵便局事件の映画をメディアで再放送し続けるべきだと思っています。
犠牲になられた方々がおいでになったこと。
そうした事実があったことを忘れないこと。
共産主義の恐ろしさを知ること。
そして二度とこのような悲惨な目に遭わないように、軍事力だけでなく外交力も合わせて、しっかりと国の護りを固めること。
世界には、力が正義と考える人達がおり、その力には非人道的な暴力も含まれていることを、私達は決して忘れてはいけないと思います。
このお話も、毎年この時期に必ず掲載させていただいているものです。
73年前の今日あった現実です。
昭和20(1945)年の出来事です。
非道大国であったソ連は、いまはもうありません。
過去があったからといって、いまのロシアやロシア人を恨むのは、違います。
日本はそのような恨みの国ではありませんし、真岡の乙女たちも決してそのようなことは望んでいないと思います。
そうではなく、過去をしっかりと踏まえて国をたいせつにし、そしてロシア人を含めて、この地上の誰もがよろこびあふれる楽しい人生を、豊かに安全に安心して生きていくことができるようにしていく。
そのために努力を怠らないのが日本人です。
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