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神道は宗教か?

皆さん お早う御座います高島 まこと です

今朝の亀山は涼しくって言いたいですが 湿度が多く結構不快です。

さて

おぎなさんより

神道は宗教か? 

って事でとても感心のある事をかいてらっしゃたのでご紹介します

先日ある会合で、「宗教」について話題になりました。
内容は、「神道は宗教か?」というものです。
その場は、全員一致で「神道は宗教ではない。もっと深いものだ」という意見にまとまりました。

私は、宗教家ではありませんし、元来不信心者なので、宗教のことは正直よくわかりません。
わからないで申し上げるのも変な話なのですが、ひとつはっきりといえることは、「宗教」という言葉は、幕末以降に造られた「翻訳語」だ、ということです。

江戸時代には、宗門とか宗派という言葉はありましたが、「宗教」という言葉はありません。
そういう単語もありません。
言葉がないということは、そういう概念自体が、もともとなかったということです。

「宗門」とか「何々宗」という呼称はありました。
けれど、それらを総合しての「宗教」という概念はないのです。

では、どうしてできたかというと、幕末にペリーがやってきて、これからはもうオランダ語(蘭学)の時代じゃない、英語の時代だ、となりまして、英語で書かれたものが、次々と翻訳されたわけです。
そのとき、英語の「Religion」を、どう訳すかが問題になりました。

世界には、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教など、巨大な「Religion」が存在します。
それをどう訳すか。
「Religion」は、もともとはラテン語の「religio」です。
これは「re(=ふたたび)」、「ligare(=結びつける)」で、要するに「神と人間とをふたたび結びつけるもの」という語彙(ごい)になります。

キリスト教では、人間は神によって造られますが、その神からエデンを追われるわけです。
追われて見放されたけれど、それをもう一度、神のもとに帰る、神と結びつける、そのための教義や実践が、「Religion」です。

そこで、これを日本語にしたら「教法」に違いないとか「聖道」だとか、いやいや実践を含むから「行教」だとか、様々に議論されるわけです。
そして最後におさまったのが「宗教」で、これが慶応4(1868)年のことで、ドイツとの間で交した日独修好通商条約第4条「日本在住の独乙臣民は自国の宗教を自由に行うの理あるべし」と翻訳したわけです。
そしてこの年の暮れ、元号は「明治」に変わりました。

というわけで、「Religion」は、神と人をふたたび結びつけるための教えと行動の二つの側面を持つらしいということになるのですが、ところがそういう概念は日本にはない。

そもそも日本では、日本民族そのものが神話の時代から綿々と続く神の直系の天子様(天皇)の子孫と解されています。
私たちは、神々の傍系の子孫だというわけです。
直系の子孫は、もちろん天皇です。
私たち日本人は、その天皇から、様々な時代に分岐した子孫というわけです。

各ご家庭には、かならず◯◯家の「本家」というのがありますが、その本家のもとをずっとたどって行くと、必ずどこかで天子様(天皇)に行き当たる。
ですから、天子様は、本家の中の総本家にあたるわけです。

「百姓」という言葉がありますが、「百」というのは、文武百官という言葉に代表されるように、「たくさんの」という意味です。
ですから「百姓」は、たくさんの「姓(=名字)」で、それら日本全国津々浦々のすべての家に備わった名字(姓)は、もとをたどせば、どの家庭も遠いご先祖が、天子様にいきあたるわけです。
その天子様は、神の直系のご子孫ですから、日本の各家は、そこからの分岐と考えれば、日本人は誰しもが神々の子孫となるわけです。

つまり、日本人は神々の直接の子孫なのだから、特段、「religio(=神と再び結合)」させる必要もない。
そもそも最初から血筋なわけです。
ですから当然に、「Religion」に対応する言葉もない。
渡来仏教にしても、いつの間にか国風化し、仏様も多くの日本人にとっての一般的概念上は、八百万の神々の中の偉大な神様(仏様)になっています。

そんなわけですから、そもそも「Religion」に相対する言葉もなかったわけで、ですから様々な試行錯誤の上、ようやく「宗教」という訳語が定着するに至ったわけです。

ですから日本人にとって、「神道は宗教か?」と問われても、すくなくとも神道は太古の昔からこの日本に存在したわけで、いわゆる明治以降の訳語である「宗教」とは、観念的にまったく異なる。
宗教よりも、もっとはるかに古いものであるからです。
そのため、感覚的なものとして、神道は宗教ではない、という感覚になる。
もちろん、税法上云々という議論とは、まったく別な観念上の意味において、です。

私はこの項で、特に宗教論について議論するつもりは毛頭ありません。
いろいろな宗教があっていいと思うし、それが人がより良く生きるための教えであり、実践であるなら、そこから学べるものはしっかりと学んで行きたいと思っています。

ただ、宗教法人としての宗教と、日本古来の、神々の時代から受け継がれた神道というのは、また別なものではないかと感じています。

考えてみると、昔の日本人が盗みをせず、思いやりをもって互助の精神を発揮し、ひとりひとりがご先祖に恥じない、より良い生き様や死に様を目指して清く生きようとした背景には、私たち日本人に、「Religion」とは異なる何かがあったからなのではないかという気がします。
すくなくとも、長い歴史をもつ日本的価値観を、無理矢理、新たに生まれた西洋的価値観にあてはめようとするのは、間違っています。
日本的価値観は、日本的価値観の中で分析し、学問として考えてみることが肝要だと思います。

さて、冒頭の写真は静岡の護国神社です。
護国神社というのは、国のために殉じた英霊を祀るための神社です。
東京都にあるのが、靖國神社。
そして東京都を除く全国の各道府県に建立されているのが、護国神社です。

護国神社は、各地に建立されてから、ずっと戦没者の遺族や戦友会などが支えてきていました。
ところが、終戦後70年近くが経ち、ご遺族や戦友の方々が向こうの世界に旅立たれ、全国的に各地の護国神社は、運営がたいへん厳しいものとなりつつあると言われています。
そんな中で、平成20(2008)年には、東京・目黒区五本木にあった目黒護国神社が、役員の死去と財政の困難から、取り壊しとなりました。

これこそ、まさに「いまそこにある危機」です。

各地の護国神社には、必ず崇敬会や崇敬奉賛会がありますので、心ある皆様は、是非、賛助会員に名を連ねていただき、護国の英霊の御霊への感謝を捧げていただきたいものだと思います。
また、地方をご旅行される際には、是非、その地の護国神社を尋ね、英霊への感謝を捧げていただきたいと思います。

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