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10円玉に隠された秘密とは

皆さん お早う御座います 高島 まこと です

花粉症もスギに関してはピークですが・・次は檜の花粉らしいですね~

ある意味・修行の日が続きますね~

さて

ねずさんから

10円玉に描かれた鳳凰堂。
いまでは世界遺産にまでなっていますが、鳳凰堂が象徴するのは贅沢三昧な暮らしではなく、実は、質素倹約を重んじ、魂をみがくことを第一とした武士道そのものにあります。
もっというなら、平時においては贅を慎み、いざというときのために常に備えを怠らないという日本精神そのものの象徴といえるのです

10円玉は、昭和26年から用いられるようになりました。
初期の10円玉には周囲の縁にギザギザがありました。
ギザギザがなくなったのが昭和34年。
表裏のデザイン(表面:平等院鳳凰堂、裏面:常盤木(ときわぎ))は、昭和26年の発行年から、ずっと変わっていません。
かれこれ70年間、10円玉には、ずっと同じデザインが用いられているわけです。

裏面の常盤木(ときわぎ)というのは「常緑広葉樹」全般を指します。
普通は広葉樹は寒くなると落葉しますが、なかには冬になっても葉が散らない木があります。
これが「常緑広葉樹」で、日本でいえば、クスノキ(楠)などがこれにあたります。

楠(くすのき)といえば、我が国の歴史上登場する数多(あまた)の武官武将のなかで、唯一、皇居に銅像が飾られている武将、それが楠正成(くすのきまさしげ)です。
つまり10円玉の裏面は、七たび生まれ変わって、なお、皇国のためにつくさんとした智将・楠正成が控えているということもできます。

では表面はというと、ここに描かれた平等院鳳凰堂は、

  この世をばわが世とぞ思ふ望月の
  かけたることもなしと思へば

と詠んだ最高権力者の藤原道長の子、関白太政大臣・藤原頼通によって創建された建物です。
往時には他に、本堂や多数の宝塔が立ち並ぶ寺院だったそうですが、度重なる京の都の火災で消失し、現在、往時のままの姿で遺っているのが、この鳳凰堂です。
建造されたのは天喜元年(1053年)、いまから千年近い昔のことです。

もともとは阿弥陀堂とよばれていましたが、建物を正面から見た姿が、まるで鳳凰が翼を広げた姿のようだということで、江戸時代の初め頃から鳳凰堂と呼ばれるようになりました。

そしてこの鳳凰堂の建つ場所は、かつて源氏物語の光源氏のモデルになった河原左大臣こと、源融(みなもとのとおる)が別荘を建てた地でもあります。

源氏物語の光源氏といえば、まさに貴公子であり、モテ系男子の典型で、下の絵は大和和紀さんの『源氏物語〜あさきゆめみし〜」からのものですが、おそらく下の絵のような、要するにイケメン男子というのが共通のイメージではないかと思います。


ところが現実はなかなか厳しいもので、下は幕末から明治初期に活躍した菊池容斎が描いた河原左大臣《源融(みなもとのとおる)》です。
理想のイケメンを想像していた女性には、ショックな画像かもしれませんが、どんなイケメンでもいずれは年をとるのです。

ちなみに、若い頃イケメンだったからといって、年輪を重ねたときに、ナイスミドルや、イカした爺ちゃんになれるとは限りません。
若い頃はやんちゃで、どちらかというと強面(こわもて)だったり、醜男(ぶおとこ)されていた男性が、半世紀の時を越えて久しぶりに会ってみたら、なんともまあ、品格の良いおじさんやおじいさんになっていたなんてこともよくあります。その逆もあります。

つまり、歳をとってからのその人の品格は、その人の人生そのものが織りなすものであるわけです。

さらに突っ込んでお話しますと、男には、職業の香りが付きます。
香りというのは、ニオイのことではなくて、雰囲気のことです。
おおむね、学校を出て、最初に社会人となった時の会社の雰囲気というか、香りです。
証券会社、金融、製造業、旅行業等々、それぞれの会社にはそれぞれの雰囲気があり、企業が行う新入社員研修と、最初の配属によって、その人に一生続く、職業の香りが備わります。
これは、1年位で退社して、まったく別な業界に行っても、ずっと付いて回るもので、その人にとっての職業の香りになります。

とある古い神社の宮司さんから伺った話ですが、人生は、振り返ってみると「全部つながっている」のだそうです。
苦労をしたあんなこと、こんなこと。
どうして飛ばされたのかわからないまま、必死でがんばりぬいたあの頃。
悩み苦しみ、もがいていたあの頃。
成功の喜びに燃えていたあの頃等、人生は山あり 谷ありです。
けれど、山も谷も、振り返ってみれば全部つながっている。
それはまるで、はじめから既定の路線であったのかのような感じさえ、するものです。

さて、源融(みなもとのとおる)についてのお話です。
お能に「融(とおる)」という演目があります。

お能では、源融が左大臣まで昇りつめながら、藤原氏との政争に敗れ、六条河原に大邸宅を造営して、余生を風雅のうちに過ごたことが描かれます。
それから何百年。
大邸宅はいつしか寂(さ)びれ、草木の生い茂る廃屋となっています。
そんな廃屋に、ひとりの旅僧が通りがかります。
旅僧は、その廃屋に、いまなお霊が住んでいることに気付きます。

その霊が言います。
「かつてここにあった邸宅の庭は、
 陸奥の塩釜の景観を模したものであった。
 その庭には、
 毎日難波から海水を汲んで屋敷まで運ばせた。
 そして院の庭で塩を焼かせて楽しみとするという贅沢も行われていた。
 だが後を継ぐ人もなく、この河原院は荒れ果ててしまった」
と嘆きます。
「たとえ一代であれ、在りし日に立派に仕事をやり遂げていたからこそ、
 そんな贅を行うことができた。
 たいせつなことは、贅を尽くした建物にあるのではない。
 その一生懸命だった在りし日の姿そのものにあるのではないか」
そう言って、経を唱える旅僧の読経に、
霊はいつしか、若々しい在りし日の姿、つまり
「国を想い、
 熱心に文武に励み、
 真剣に民を想って仕事をしていた
 純粋だった若き日の姿」
となって、月の都へと旅立っていく・・・というのが、この「融」の物語です。

お能は武士に愛された芸能です。
どんなに贅沢な暮らしをして、身を飾っても、それらはいずれ廃墟となってしまう。
未来に続くのは、真剣に、懸命になって民を想い、仕事をする姿そのものにある。
「融」は、そんな武士の生き様を教える演目であったわけです。

お能を保護したのは、全国諸藩の歴代の殿様たちです。
殿様たちは、ほとんど誰もが、毎年の能会で、この「融」を演じたそうです。

その昔、武士は刀槍と具足(ヨロイのこと)以外は何も持たず、屋敷は常にガランとしていることが最上とされました。
屋敷も贅沢な調度品も、時が建てばすべて失われていきます。
けれど、今生の武勇と、身に付けた知性は魂魄となって世代を超越します。

肉体は永遠のものではありません。
身につける物や財貨も、永遠のものではありません。
けれど、人の努力や想いは、必ず永遠に続いていく。
自分が死んでも、自分の子が、孫が、真剣に国を愛した父の想いを、祖父の想いを繋げてくれる。
たとえいっとき、それが希薄になったように感じられたとしても、
真剣な想いは、必ず子々孫々の心となり、魂となり、いつの日か、必ず復活していく。

10円玉の表に描かれた宇治平等院鳳凰堂。
この建物のある場所が象徴しているのは、華美で贅沢な暮らしではなく、そこに至るまでの不断の努力です。
そして若き日の源融のその努力した心が、関白太政大臣・藤原頼通によって鳳凰堂として再現されていたのです。

つまり鳳凰堂は、贅を尽くした建物であることにその要領があるのではなく、努力する姿そのものこそが鳳凰(おおとり)を呼び寄せる、そういう意味が込められているわけです。

鳳凰というのは、「聖天子の出現を待ってこの世に現れる」とされる想像上の鳥です。
では、聖天子は、どのようなときに現れる存在なのでしょうか。

ひとついえることは、民度が低ければ、そこに聖天子が現れることは絶対にないということです。
早い話、極端なことを言えば、民度が低ければ、ハエが金冠を選ばずに停まるのと同じで、もしかするとせっかく現れた鳳凰も、射殺されて食べられてしまうかもしれない。
鳳凰が鳳凰として崇められ、聖天子が世に出現するときというのは、それが可能なだけの民度が備わっていなければ、絶対に起こり得ないものなのです。

つまり、鳳凰が象徴しているものは、聖天子を招き寄せることができるような高い民度の国であるといえます。

たとえば信長です。
信長は戦国の世にあって、その戦乱の世を終わらせたいとする高い民度が当時の我が国に育ち備わっていたからこそ、活躍することができたのです。
混迷する現代に、織田信長を待望する声は多いけれど、現代版の信長を得るには、日本人自身が民度を上げていかなければならないのです。

聖天子が出現し、鳳凰が現れる。
それは、高い民度がひとつの国になったとき。
そういうことなのです。

そして、そんな鳳凰堂を、モチーフにしたのが10円玉です。

10円玉ひとつでは、個人の贅沢はできません。
けれど、1億の民がひとり1枚の10円玉を持てば、それは10億円になります。
みんなの民度が上がり、みんなのチカラが結集されたとき、もしかすると10円玉から本物の鳳凰が飛び出すのかもしれない。

いやあ、10円玉って、意外と奥が深いですね。

日本をかっこよく!
お読みいただき、ありがとうございました。

では 行ってきます

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