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今週も宜しく

皆さんおはよう御座います 高島 まこと です

今週も宜しくお願いいたします

さて 77年前のお話ですが・何が行われたのか・・・同時に何がおこなわれていたか

77年前の9月2日、我が国は2000年以上の歴史において初めて全面降伏をしました。その降伏文書の調印式は東京湾内に停泊した米戦艦ミズーリ号の甲板上で行われました。その調印式に臨んだのは外務大臣重光葵と陸軍参謀総長梅津美治郎大将でした。おそらく我が国の歴史上初となる降伏の儀式に多くの重臣が参加を拒んだと思われますが、彼はその大任を引き受け、その時の心境を

「願くは 御國の末の 栄え行き 我が名さけすむ 人の多きを」

と詠んでいます。重光外相は「今は多くの国民が敗戦の痛みに打ちひしがれてはいるが、いずれ再び日本が栄え、この屈辱的な行為を行った自分を責める人が多くなってくれ」と後世の日本人が再び立ち上がってくれることを願い屈辱の調印式に臨んだのです。つまり彼は自らの名誉よりも国家の繁栄を願い敢えて汚れ役を引き受け、後世の日本人に未来の日本を託したのですが、残念なことに今を生きる日本人の大半は彼の名を蔑むどころか知りません。まして彼の本当の願いなど知る由もありません。おそらく、この写真を見ても「アメリカ相手の勝てる見込みのない戦争は一日も早く終わらせるべきだった」「兎にも角にも戦争が終わってよかった」「よくぞ戦争を終わらせてくれた」と思う人の方が多いのではないでしょうか。

しかし、この日で戦争は終わりませんでした。大戦当初から日本と戦ってきたアメリカをはじめとする連合国の大半が8月15日を境に戦闘行為を停止していたにもかかわらず、つい一か月ほど前に参戦したソ連軍は満州、樺太千島を侵略占領し、この調印式後も侵略の手を緩めることなく北方領土を占領しました。その結果、今なお我が国の領土は不法に占拠されたままです。

そもそも、ソ連は同年8月8日の23時ころ、一方的に有効な中立条約の破棄を宣言するとともに駐ソ大使に宣戦を布告しました。あわてた大使が日本に連絡をとろうとしたところ日本公館の電話線は切断されており連絡が取れないまま、その一時間後、日付が変わるのを合図に奇襲攻撃を始めたのです。このソ連の仕打ちこそが計画的な騙し討ち(sneak attack)です。

更に、ソ連軍は日本が降伏の意思を表明した8月14日以降も日本軍に武装解除命令が出ていることをよいことに、降伏の軍使を殺害し、赤十字のテントに空爆を加え、引揚げ船を撃沈するなど、軍民問わず日本人に対して一方的な殺戮行為を行いました。

満州、朝鮮、樺太、千島では、9月2日以降もソ連軍は日本人に対して、人とは思えないような行為を繰り返した挙句、国際法やポツダム宣言に背き、65万人(一説によれば200万人)もの日本人を、シベリアやモンゴル、中央アジア、北朝鮮、カフカス地方、バルト三国などに強制連行し、劣悪な環境の下、ロクな食料も与えずに強制労働に従事させたため6万~25万人の人が故国の土を踏むことなく亡くなりました。

ところが、現代に生きる我々日本人は敗戦の屈辱を忘れ、罪もない同朋を大量に殺戮したアメリカ軍が77年間も自国内に居座り、我が国の命運を左右する存在であり続けていることに疑問を感じなくなり、基地に反対する人の大半は日本に敵意を持つ国の思惑通りに動く人ばかりで真に日本のことを思って米軍基地に反対する人はごくわずか。占領が終わっても自ら国軍を持とうという気力もなく自国民を拉致されても、島を占領されたままでも、ミサイルを撃ち込まれても、領土領海を脅かされても何もできない現状。はたして現在の我が国は経済こそ繁栄はしていますが、重光葵が望んだ日本国になっているでしょうか。

ちなみに重光葵は「いわゆる」A級戦犯として懲役7年の有罪判決を受け刑に服しましたが、仮釈放後、政界に返り咲き再び外相となり、昭和31年12月18日、日本が国連に加盟する国連総会において、「東西の懸け橋」演説を行い、各国の代表から握手攻めにあうほどの称賛を浴びました。その時、誰一人として重光が「いわゆる」A級戦犯であるなどと言う人はいませんでした。

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