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日本海軍

皆さん おはよう御座います 高島 まこと です

雨の合間に稲刈りを速攻皆さんしていましたね~

さて 

バルチック艦隊についてのお話が尊敬する小名木さんから配信してありますのでご紹介します

明治38(1905)年5月27日、大日本帝国聯合艦隊は、日本海においてロシアのバルチック艦隊を撃滅しました。
そしてこの日は、かつては「海軍記念日」とされていました。
いまでも日本海海戦記念日として、各所で式典が開催されています。

そこで今日は、この日本海海戦が持つ意味について考えてみたいと思います。

聯合艦隊というのは、海軍の主力艦隊と、沿岸警備艦隊の二つを当時軍令部官房主事であった山本権兵衛が、日清戦争の開戦6日目に統合して「聯合艦隊」としたものです。
いまでいうなら、海上自衛隊の艦隊と、海上保安庁の艦隊を統合して「聯合艦隊」としたようなものです。

最近では「聯」の文字が当用漢字にないためか、「聯合艦隊」を「連合艦隊」と表記しますが、両者は意味がまったく異なります。

「聯」は、「耳へん」に糸を密接に組み合わせた文字になっていますが、これは古代のChinaにおいて、戦いの際に敵の遺体の耳を切り取って糸でつないで戦勝の証としたことに由来しています。
耳が密接に糸でつながれているさまから、「聯」は、ひとつひとつが密接な関係を持って集合し、相互に連携して活動する際に用いられる字です。

これに対して「連」は、「シンニュウ」に「車」で、シンニュウの源字は「辵(ちゃく)」です。
「辵(ちゃく)」は「走る」という意味の漢字で、「車」が「走る」さまです。
ですから、これを艦隊にあてはめると、
「連合艦隊」なら、ただ艦隊がつらなって走行しているだけの姿、
「聯合艦隊」なら、すべての艦が有機的に結合し、機能的に活動する艦隊という意味になります。

日本海海戦は、御存知の通り、日本の聯合艦隊がロシアのバルチック艦隊を艦隊戦で打ち破った世界史上に稀なる大海戦です。
この当時ロシアは、ウラジオストックに太平洋艦隊を擁しており、その太平洋艦隊は大連に移動していました。
大連には、有名な203高地があり、そこにある旅順要塞が大連港にいるロシア太平洋艦隊をがっちりと守っていました。

ロシア太平洋艦隊だけなら、日本海軍と戦力はほぼイーブンです。
ところがロシアは、日本海軍撃滅のため、バルト海から世界最強の呼び声高いロシア・バルチック艦隊を日本に向かわせたのです。
この二つの艦隊が合わされば、戦力はロシアが日本の二倍です。日本海軍には万にひとつも勝ち目はありません。

そして日本海軍が敗れれば、朝鮮半島から満州方面に展開する日本陸軍は補給を失い、退路を絶たれ、世界最強最多の兵力を持つロシア陸軍に完全に包囲殲滅されることになります。
ですから日本はどうしても、何が何でもこのバルチック艦隊とロシア太平洋艦隊の合流を阻止し、かつ、バルチック艦隊を殲滅しなければならなかったのです。

こう書くと、戦わずに降参するという選択肢もあったのではないかと思う人がいるかもしれませんが、何度も書きますけれど、大陸においては軍隊と暴徒とヤクザは、同じものです。
ですから日本が敗れれば、朝鮮半島や日本列島にいる日本人は、ロシア人達によって好き放題に虐殺されることになります。
実際、それがどのような事態をもたらすかは、先日の拙記事「尼港事件」をご覧いただければわかることです。

聯合艦隊司令長官の東郷平八郎は、「敵艦見ゆ」の報に接し、ただちに聯合艦隊に出動を命じました。
このときの電文が、有名な「天気晴朗なれど波高し」です。

そして対馬海峡を北上してくる38隻のロシアの大艦隊との距離が8千メートルに近づいた午後2時5分、日本艦隊は左に旋回して敵艦隊と平行に並び、速力を早めてその行く手を阻みました。
これを見たロシア海軍は、すぐに発砲を開始しました。
ロシア海軍の戦艦の方が、砲弾の飛距離が長いのです。

日本海軍は、距離6千メートルに近づくまで砲撃を我慢しました。
そして夕方までの3度の海戦によって、敵の新鋭艦隊を撃沈して戦いを制しました。
戦闘は翌日朝まで続きましたが、この海戦によって、バルチック艦隊は、38隻のうち、沈没21隻、降伏6隻、後に降伏して武装解除6隻、ロシアに逃げ帰った者2隻で、目的地のウラジオストックに辿り着いた艦は、わずか3隻となりました。

この戦いで日本は水雷艇3隻を失いましたが、軍艦の沈没はゼロでした。
日本は圧倒的大勝利を飾ったのです。

ちなみにこの戦いのときに、水雷艇を指揮して、敵味方の砲弾が炸裂する中を、砲弾の着弾を左に右にかわしながら敵艦隊の50メートルにまで近づいて魚雷をぶっ放すという、とてつもない戦い方をしたのが、後に大東亜戦争を終戦に導いた首相の鈴木貫太郎です。

日本海海戦で勝利することで、日本は大陸への補給ルートを確保し、次いで日本陸軍が世界最強の堅牢さを誇った旅順要塞を陥落させて旅順港にいたロシア太平洋艦隊を陸上からの砲撃で殲滅し、世界の陸戦史に残る大会戦である奉天戦に勝利して、日露戦争を勝利しました。

そして日露戦争の勝利は、世界の植民地として支配され収奪され続けた世界の有色人種に、民族独立の夢と希望を与え、それが現代の世界における有色人種国家誕生のきっかけ、米国人の公民権取得の原因となっています。
つまり、日本海海戦の勝利は、ただ日本の海軍記念日というだけのものではなく、地球上の人類社会が、支配と隷属というウシハク不条理から、肌の色を越えて民衆が対等に接することができる新たな社会を切り拓く、最初のきっかけとなった大海戦の勝利であったわけです。

これを現代日本が、記念日ともせず、子供達にもその意義をまったく教えず、またメディアなどにおいても、まったく意義を報道しようともしないというのは、世界に対する背信行為であり、差別をなくし平和と、人として、あるいは国家として、自立自尊を希求する人類社会に対するテロ行為です。

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